アンドレ・マッソン「オートマティスム」

アンドレ・マッソン / Andre Masson

オートマティスムや抽象表現主義の発展に貢献


「オートマティック・ドローイング」(1924年)
「オートマティック・ドローイング」(1924年)

概要


アンドレ・マッソン(1896年1月4日-1987年10月28日)はフランスの画家。

 

ブルトンの「シュルレアリスム宣言」とともにいち早く「オートマティスム」(自動記述)を採用。自動デッサンと呼ばれる手法は主題も構図もまったくなく、純粋な身振りから生まれる線が有機的なイメージを生み出した。


初期作品はキュビスムの影響が見られるが、ブルトンに誘われてシュルレアリスムへ移行。マッソンは自動記述の表現方法を最も発展させた一人として知られている。戦後は抽象表現の発展に貢献した。

 

後世の影響は大きく、「魚の戦い」で試みた純粋な身振りで描かれた自動記述は、ジャクソン・ポロックのアクションペインティングに受け継がれた。


ジョルジュ・バタイユとジャック・ラカンは義理の兄弟にあたる。

略歴


戦争体験と死の哲学


アンドレ・マッソンは、フランス・オワーズ州南部のバラニー=シュル=テランで生まれたが、ベルギーで育った。

 

11歳のときにベルギー象徴主義の美術家コンスタン・モンタルドが主任教授を務めるブリュッセル王立美術学校で絵画の勉強を始める。モンタルドを通じてマッソンはパリの詩人エミール·ヴェルハーレンと出会うことになる。ヴィルハーレンはマッソンの両親を説得して、マッソンは美術を学ぶためパリのエコール・デ・ボザール通うことになる。


またパリでマッソンはポール・ボードワンのスタジオでフレスコ画の勉強をする。アカデミーの助成を経て、マッソンはイタリアやスイスにも遊学した。


若いころのマッソンは絵画では印象派や象徴に影響を受けた。ほかにはニーチェやワーグナーなどのドイツ文化や哲学、アール・ヌーヴォー様式に熱心だった。

 

1915年にマッソンは第一次世界大戦でフランス軍の歩兵として参加。1917年にシュマン=デ=ダムで胸に重症を負い、2年間病院生活を送ることになる。しかしこのとき「死のエクスタシー」をマッソンは感じる。戦争時代の経験は、マッソンにとって人間の運命に対して深遠な哲学を呼び起こすことになり、生成、羽化、変態への個人的なイメージを探求するための大きな刺激となった。

南フランスとキュビスム時代


1919年にマッソンは南フランスのキュビスムの発祥地であるセレに滞在向する。そこは1905年ごろからアンドレ・ドラン、パブロ・ピカソ、ファン・グリスといった多くのアーティストが活動していた。この時代にマッソンは、セザンヌやゴッホなどの後期印象派やキュビスムから影響を受ける。


また、セレでマッソンはオデット・キャバルと出会い結婚。娘が産まれると二人はパリへ移動することにした。1920年代のはじめ、マッソンはブロメ通りのアンチ=セナークルにアトリエを構えて絵画活動を再開する。


マッソンの初期作品、特に1922年から23年の作品は森がテーマとなっており、またアンドレ・ドランの影響が反映されている。しかし、1923年後半からドランから離れ始め、分析的キュビスムに興味を移していった。

 

マッソン最初の個展は、1923年にパリのギャラリーシモンでダニエル=ヘンリー・カーンワイラーの企画で開催された。その個展でアンドレ・ブルトンはマッソン作品「四元素」に魅了され、またマッソンをシュルレアリスム運動へ迎え入れた。

「The Crows」1922年
「The Crows」1922年
「四元素」(1923年)
「四元素」(1923年)

シュルレアリスム運動に参加


マッソンはシュルレアリスムの影響を受け、ミロとともにオートマティスムのドローイング実験を始めやいなや、マッソンのキュビスム作品もすぐに象徴的な内容として共鳴するようになる。二人のドローイングは1924年12月に「シュルレアリスム革命」創刊号に掲載された。


オートマティスムは「自動記述」と呼ばれるもので、書く内容をあらかじめ何も用意しないでおいて、かなりのスピードでどんどん物を描いてゆく実験である。もともと「「自動書記」という精神医学の治療で使われていたものを、美術に採用した手法である。ブルトンが1919年に初めて実験を試みている。(関連記事:自動記述と狂気


マッソンはよく、自ら良くない体調に追い込んで(空腹、不眠状態、ドラッグなど)で作品を手がけた。そのようなコンデションにすることで、理性などから解放され、より無意識的な意志を表現できると考えたためである。

 

アントナン・アルトー、ミシェル・レリス、ジョアン・ミロ、ジョルジュ・バタイユ、ジャン・デビュッフェ、ジョルジュ・マルキンといった画家たちらとともに変性意識の実験に取り組んだ。


1926年ごろからマッソンはキャンバスに砂と接着剤を投げつけて形成された形状を元にして油彩画を制作する。これが『魚の戦い』であり、「砂絵」という技法である。1924年から1929年の間、ミロとマッソンの二人が開発した生物的な形態とよく似た抽象画がシュルレアリスムで注目を集めていた。

 

1929年後半ころにはマッソンのキュビスム作品はより図式的で、構成的主義的で、またオートマティスム的な手法を取り入れた図像と発展する。またシュルレアリスム運動を離れ、『シュルレアリスム第2宣言』(1929年)では、ブルトンから批判を受けるようになり、シュルレアリスムから追放される。同年、妻のオデットとも離婚。マッソンは、ブルトンの敵であったジョルジュ・バタイユと親密になり始める。

「魚の戦い」1927年
「魚の戦い」1927年

南フランスからスペインへ


マッソンは1930年からパリを離れて、1937年まで南フランスのグラースやスペインで多くの時間を過ごすことになる。この時代にマッソンが取り組んでいた主題やテーマは、ギリシア神話やスペイン文学、スペイン市民戦争に関することだった。

 

1931年から1933年までは特に虐殺に関するテーマ中心で、シャープでギザギザが多い編ストロークで暴力的で激しいドローイングシリーズを多数制作。ギリシャ神話に基づいた儀式的な殺害を表現主義的に描いた。1932年にはアンリ・マティスと親交を深めるようになる。

 

1933年マッソンはモンテカルロシアターによるモンテカルロ・ロシアバレエ劇『前兆』の舞台デザインや衣装を担当。


1934年にフランスで極右右翼・ファシストが議会を攻撃し、多数の死者が出る事件が発生すると、マッソンは戦争の予兆を感じて、スペインへジョルジュ・バタイユの妻の妹ローズを連れていく。

 

1936年にジョルジュ・バタイユが発行する雑誌「Acéphale」創刊号の表紙を担当、1939年までその雑誌に参加した。同年、ローズと結婚。なお義理の弟として心理学者のジャック・ラカンがおり、ラカンはクールベの問題作『世界の起源』を所有していた。ラカンはアンドレ・マッソンに、これを隠すための別の絵と、二重構造の額縁の制作を依頼した。マッソンは隠喩的なシュルレアリスム版の『世界の起源』を描いた。

 

1937年にマッソンはパリへ戻りブルトンと和解したことは、マッソンの芸術においてより大きな表現や深い幻想的な空間の方向へ向かうきっかけとなった。おそらく当時のシュルレアリスムムーブメントであったサルバドール・ダリ、ルネ・マグリット、イヴ・タンギーの影響があり、またマッソンの強烈なエロスやタナトスのイメージは、ギリシャ神話やジグムント・フロイトの夢や無意識に関する書物からの影響が大きい。

モンテカルロ・ロシアバレエ劇『前兆』
モンテカルロ・ロシアバレエ劇『前兆』
バタイユが発行していたざ『Acéphale』
バタイユが発行していたざ『Acéphale』

第二次世界大戦とアメリカ現代美術への影響


第二次世界大戦が本格化すると、ナチス・ドイツの影響下にあったヴィシー政権のもとで、マッソンの作品は退廃芸術と見なされ、非難の対象となった。しかし1941年マルセイユのヴァリアン・フライの援助により、マッソンはマルティニークからアメリカに渡り、ナチスの迫害から逃れることが出来た


しかし渡航先のニューヨークでは、マッソンが持ち込んだ自身のエロティックな絵画が税関当局によって発見された。それらはポルノグラフィと見なされたため、当局によって作者の前で引き裂かれた。


マッソンは、コネチカット州のニュープレッストンに滞在、そそこで自然の生命力に感化された作品を多数制作する。またそこでジャクソン・ポロックなどの抽象表現主義の作品に影響を与えた。終戦を迎えると、マッソンはフランスに戻りエクス=アン=プロヴァンスに移住、そこで風景画などを多く残した。


1987年、パリで死去。

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